市川沙央さんが問いかけた「共生」の認識 もう気づかないふりしない
田中聡子
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「共生」という2文字を「」に入れずに使うことにためらいがある。きらきらした美しい言葉に、どこかうさんくささを感じているからだ。「」にくくることは、「私はうすっぺらい言葉だと分かってますよ」といういいわけだった。
「うさんくさいのは、あなたではないですか?」。昨年、オピニオン編集部で担当した小説家の市川沙央さんの寄稿が届いた時、そう問いかけられているように感じた。「共生」を掲げた朝日新聞のイベントや関連記事から、障害のある人の存在が消されている。手話通訳も字幕もなく、イベントが健常者による健常者のためのものになっている。寄稿は朝日新聞の「共生」の認識を厳しく問うていた。
「よりによって『共生』という言葉を簒奪(さんだつ)するとは」という市川さんの言葉が、重たく残った。自分たちに都合のいい「共生」にどっぷりつかり、言葉を奪っていたのは私だ。「うさんくさい」と他人事のように言っている場合ではない。
伝えるため 向き合う
15日から新聞週間。大きな壁にぶつかることがある。足をとられ、立ち止まることだってある。それでも記者たち、技術者たちは、人に、事象に、社会に向き合っている。もがきながら、これからも伝え続けるために。多くの人にニュースを届けようする記者や技術者の姿を紹介します。
同じように、市川さんの寄稿を読んで突きつけられるものがあった記者はたくさんいた。「自分は聞きやすい人の声だけ聞いていたのではないか」「『共生』のイベントに何の違和感もなかった」といった声が聞こえてきた。市川さんの寄稿がまだ記憶に新しい頃にくらし科学医療部に異動となり、ほどなく新年企画の話し合いが始まった。「共生」をテーマにした提案が複数あった。
早々にテーマは決まったが、次はこの企画でどこまで「共生」の範囲を広げるかという議論になった。外国人との共生、認知症との共生――。共生が掲げられる場面は数え切れない。メンバーからも、様々な共生を考える提案があった。結果的に新年企画では「障害」にテーマを絞ろうと決まったのは、「まずは市川さんの寄稿に、しっかり応えなければならない」という思いがあったからだ。メンバーそれぞれの問題意識を出発点にして読者と一緒に「共生」を考えようと、障害のある人や親御さん、障害者運動の研究者などに話を聞いたり、自身の体験をつづったりした。
共生の現実
連載のタイトルは「『共生』を考える」。ここでも共生には「」がついた。取材班にも社会にも、「共生」という言葉への賛否があることをふまえた。連載で取材を受けてくれた人からも、「共生という言葉を軽々しく使ってはいけない」「言葉自体を揺るがす必要がある」という話があった。
この連載をもとにした記者サロンには、初めて手話通訳がついた。ゲスト出演した日本障害者協議会代表の藤井克徳さんに、配信動画を障害のある人にも届けるためのツールを尋ねた際、「絶対に必要だ」と教えてくれた。字幕はつくのに?と思ったら「字幕と手話は別物。聴覚障害者の中でも、完全に聞こえないか難聴か、いつから聞こえないかなどによって文字か手話かが変わってくる」という。目からうろこだった。
手話通訳の金額は、数万円で済むレベルではなく、驚いた。
だが、これが共生の現実なのだと思う。お金はかかるし、手間もかかる。つい「気付かなかったふり」をしたくなる。でもそうしている限り、社会はいつまでも健常者に都合のいい制度や施設や環境のまま動かない。大変でも面倒でも調整し続けた先に、「」が外れた、うさんくさくない共生が、ようやく見えてくるのではないだろうか。
「『共生』を考える」は、外国人との「共生」などにテーマを広げながら、今も読者とともに模索を続けている。
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